夕食後のひと時、オーフェンは暇を持て余し、のっそりと立ち上がった。 「コーヒーでも淹れるか」 独り言も、ここ数日で格段に多くなったと自覚はある。 だが止める者も注意する者もいないので、しばらくこの癖はなおりそうもなかった。 「えーと、豆は・・・?」 もはや独り言についてはどうでも良くなり、彼は一人で呟き続ける。 そうでもしなければ家の中は静かすぎて、孤独感が募るばかりだった。 クリーオウが外泊するようになってから、もう5日目になる。 べつに夫婦喧嘩をして彼女が家出をしたのではない。 縁起でもないことだが、彼女が浮気をしているのでもない。 オーフェンが家を離れて単身赴任をしているわけでもなかった。 子育てのために実家へ戻ったわけでも無論ない。 ただ5日前に、 「お母様とおねえちゃんが風邪をひいたので、今夜は実家に泊まります」 という書置きが、一人分の夕食とともにあった。 クリーオウがたまたま実家へ遊びに行って、たまたま二人が病気で寝込んでいるのを見つけたのだろう。 風邪のシーズンはもう終わりかけとはいえ、今年の風邪はタチが悪いと聞いている。 同僚にも風邪で長期間休んでいる人間が何人かいた。 「あれ」 戸棚を開け、目的のものが見つからないことにオーフェンは顔をしかめる。 あると思っていた棚に、コーヒー豆がない。 コーヒーを飲むときはいつもクリーオウが豆を用意してくれていたので、彼ははっきりとした場所を覚えていなかった。 「・・・・・・」 きまりが悪く、がしがしと頭をかく。 仕方がないので、オーフェンはインスタントのコーヒーを淹れることにした。 味は当然劣るが、それはもうしょうがない。 コーヒーは特別飲みたかったわけでもなく、ただの暇つぶしにすぎないのだから。 クリーオウが実家に泊まり始めてもう5日目になるが、実際は昼間家に戻ってきていた。 毎日彼女は昼間家に帰ってきて、掃除や洗濯などをしてくれている。 オーフェンも自分なりに片付けているのだが、もっと細かいところまでクリーオウは気を配っているようだった。 夕食も毎晩用意してくれている。 そういうわけで、オーフェンが食事に困るということはなかった。 朝食だけは自分で作っているが、そのくらいはクリーオウに頼らなくてもできる。 クリーオウがいなくても生活はできる。 が、はやり物足りなさを感じた。 静かな、今のような暮らしに憧れたこともあるが、実際体験してみると静かすぎる。 普段クリーオウが必要以上に騒いでいるため、なおさらそう思うのかもしれなかった。 「明日にでも様子見に行ってみるか」 今のも独り言だと自覚はあるが、オーフェンはもう気にしなかった。 エバーラスティン家の屋敷はいつ見上げても豪奢で、オーフェンには敷居の高い場所だった。 見上げるほどに高い頑丈な鉄格子。 そして門から玄関までの、とても短いとはいえない庭。 いつもならクリーオウが先導してくれるのだが、今日はその彼女を目的にここを訪れている。 今回ばかりはクリーオウを頼れるはずもない。 明確な理由でもあれば少しは軽い気持ちで、オーフェンの身長の倍はある鉄製の門をくぐれるだろうが、その持ち合わせもなかった。 義母と義姉の見舞いということでも良いと気づいたが、肝心の見舞い品がない。 ここに来るまで、そのことはそのことは完全に念頭から外れていた。 今から戻ったところで店はもうほとんど閉まっているだろうし、ここからでは商店街まで距離がありすぎる。 自分の中では、クリーオウが実家に戻っていることが気がかりだっただけで、実家に戻っている理由はどうでもよかったらしい。 仮にも母と姉に対しては、あまりにも失礼な話である。 そのまま家に帰ることも考えたが、オーフェンは覚悟を決めて重い鉄格子を押した。 無駄に広い庭を突っ切り、唾を飲み込んでから威圧感を感じさせる扉のノッカーを叩く。 10秒ほど待ったが返事はない。 自分の家とは勝手が違うらしく、敷地内に沈黙が落ちる。 さらにもう一度叩く。 そしてその後の静寂。 もしかすると見当違いなことをしてしまっただろうかと、背中を冷たい汗が伝う。 ドアノッカーに他の用途はないはずだが、場違いなところにいることも承知していたため、自信がなくなってきた。 (帰るか?) クリーオウならあと数日もすればきっと帰ってくる。 もうしばらくの辛抱だ、と自分に言い聞かせ、暗い空を仰ぐ。 決心がついて、扉に背を向けようとしたところで、屋敷の中から微かな声が聞こえた。 熱い隔たりのせいではっきりとは聞き取れなかったが、あの声はクリーオウだ。 重い扉がゆっくりと開いたので、オーフェンはそれを手伝った。 薄暗い室内から、金色の小柄な影がひょっこりと現れる。 扉の予想外の軽さにか彼女はドアノブに手をかけたままよろめいていた。 オーフェンが苦笑しながら見ていると、彼女はびっくりした表情でこちらを見上げる。 「オーフェン?どうかした?」 その聞きなれた声に、思わず顔がゆるむ。 彼女の変わらない表情がなつかしい。 たった5日では何も変わらないだろうが、クリーオウの声を聞いて、やっと緊張がほぐれた。 彼女の細い指に自分の指を絡ませて苦笑する。 「いや、どうしてるかなと思って」 それから指を絡ませたまま他愛ない話を15分ほど続けて、オーフェンはぽつりと呟いた。 「どうして離れて眠らなきゃならないんだろうな、俺たち」 仕事での出張など、やむを得ない理由なら渋々ながらも納得はする。 けれどこうして会える距離にいるにも関わらず、離れて眠ることが承知できなかった。 同棲や結婚を許されない恋人同士でもあるまいに。 オーフェンの文句がおかしかったのか、クリーオウはくすりと笑う。 「今日はここに泊まってく?お部屋ならあるわよ?」 「んー・・・」 オーフェンは一瞬考えたが、すぐ首を振った。 本当はとてもうなずきたいのだが。 「いや、いい。お前の作った夕食が家にあるし、ここからでは同盟に遠いし、徹夜で仕事はちときついし」 「最後のせりふが意味不明だけど」 「だから今日は帰るよ。お前もすぐ帰ってくるんだろ?」 「ええ、あさってには」 「そうか。しあさってが休みだからちょうどいいな」 「なにが?」 彼女は聞き返してきながらも明らかに分かっているようなので、オーフェンはにやりと笑った。 「帰ってきてからのお楽しみ」 「楽しみなの?」 クリーオウもつられてくすくすと笑う。 つい先ほど言い争いをしたばかりだが、やはりこういうやり取りが心地良い。 深呼吸して気持ちをリセットする。 名残惜しいが、オーフェンは彼女の指をそっと離した。 「じゃあ今日はもう帰るな。おやすみ」 言って、クリーオウの頬に口づける。 「おやすみなさい」 彼女が笑顔で手を振るのを確認し、オーフェンはエバーラスティン家の重い扉を閉めた。 あまり彼女を夜気にさらして、風邪をひかせては元も子もない。 「・・・やっぱ泊まっときゃ良かったかな」 ぽけっとに手を突っ込んで歩きながら、オーフェンは星空を見上げた。 (2005.4.1) |
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